1
『カンガルー日和』(1983)の「カンガルー日和」(1981/10)は、大きな秘密を隠している。
本稿で解明するのは、①「カンガルー日和」のテーマ、②「カンガルー通信」のテーマ、③オールド・スポートの起源、④皮剥ぎの起源、⑤「100パーセントの女の子」の起源、その他である。
2
「カンガルー日和」は短編集『カンガルー日和』の表題作だが、『中国行きのスロウ・ボート』の「中国行きのスロウ・ボート」と違って、あまり良い出来の小説ではない。
これは短編集『カンガルー日和』全体について言えることで、いろいろな試みを自由に発表しているという印象を受ける。(「100パーセント」「かいつぶり」は特別に優れていて、私は村上短編ベスト5に入れている。)
それは村上も言っていることで、「短編近似作品」であり、「自分の中にある、変則的な形でしかうまく抽出されにくいものをそれなりにうまく抽出できたような気がする」(『全作品1979-1989』⑤「自作を語る」)というものだ。
「カンガルー日和」は「実験的」(同上)な小説であるが、村上の中の何を表現しているのだろうか?
『中国行きのスロウ・ボート』はテイストとしてジャズをモチーフにしているが、『カンガルー日和』はポップスをモチーフにしている(と仮定することができる)。
イパネマの娘、バート・バカラック、サウスベイ・ストラット、・・・
「カンガルー日和」のポップスは何だろう?
それは『悲しきカンガルー』(1964)である。
Tie me Kangaroo down, sport
というリフレインがとても印象的で(私はタイニカンガルーダンスポッ、と憶えていたが)、後年まで記憶される名曲である。
原曲はオーストラリアの1960年のヒット曲で(ロルフ・ハリス)、1963年にアメリカで大ヒットしていた。題名は上記のフレーズ。坂本九『上を向いて歩こう』がヒットしていたのと同じころのことである。
日本では、ザ・ピーナッツのものとダニー飯田とパラダイスキングのものの2つが競作で出たが、詞の内容は異なる。原詞は後で紹介するが、3つの世界は別物である。
ザ・ピーナッツは女の子の恋の歌。パラダイスキングは男の子の恋の歌。原詞はかなり不思議なシュルレアリスムの世界。
日本でヒットして記憶されているのは、パラダイスキングの男の子の失恋の歌である。
みなさんちょっとここに来て聞いて下さい。
これはオーストラリアのある街はずれでのお話です。
カンガルーてあだ名で呼ばれた男の子の悲しい物語です
つかない日とはきのうのこと
さんりんぼうか13日の金曜日か
Tie me Kangaroo down, sport
Tie me kangaroo down
Tie me kangaroo down, sport
Tie me kangaroo down
すかして街を歩いたら
いい娘が通るあとをつけたよバッチリコン
Tie me Kangaroo down, sport
(くりかえし)
スイとまがった可愛いい娘ちゃん
あわてた僕は真赤なポストにガンガラリン
(リフレイン)
(1連略)
しかたがないさあきらめよう
ガチャ目に涙悲しカンガルーそれは僕
(リフレイン)
(1連略)
(リフレイン)
この詞は似ている、あの「100パーセントの女の子」に。そしてそれは偶然ではない。
短編集では発表順を無視して、「カンガルー日和」「100パーセント」と連続している。つまり、2つの世界は連続しているのだ。
村上はこの短編集では「100%」がいちばんお気に入りとのこと。(『全作品』)
満員の山手線の車中である広告ポスターを見かけたことが原形になっている。(略)モデ
ルになっていた女の子に、僕は理不尽なくらい激しく惹かれた。胸がいっぱいになって、
脚が震えた。それは今思いおこしても本当に運命的な出会いだったのだ。 (同上)
この経験が「100%」になるためには、『悲しきカンガルー』がどれほど強く深く村上の記憶に刻まれているかが証明できなければならない。
2
原詞は以下のようである。(要約)
オーストラリアの牧童が死に瀕して仲間に語りかける。
ワラビーにえさをやってくれ
(リフレイン)
カンガルーをつないでくれ、君(sport)
(リフレイン)
ボタインコ
(リフレイン)
コアラ
(リフレイン)
土人
(2連略)
私が死んだら私の皮を剥いでくれ、フレッド
それで私たちはクライドが死んだ時、彼の皮を剥いだ
ほらあれだ 小屋にかかっているやつだ
さあ、みんないっしょに歌おう
こんなところで「皮剥ぎボリス」に出会うとは、奇遇というほかはないが、映画『羊たちの沈黙』以前に(おそらく高校時代)脳に入力されていたのだ。(ジェイ・ルービンになぜこんな皮剥ぎのようなものを書くのかと聞かれて村上は、どうしてか分からないと答えている。)
この深層記憶が、『グレート・ギャッツビー』(2006村上訳)の old sport を「オールド・スポート」と訳させている主役である。
訳書の91頁が初出でそこでは、呼びかけの「あなた」にルビとして「オールド・スポート」が出てくる。次頁からはルビではなくなる。
「訳者あとがき」で村上は、「オールド・スポート」は「オールド・スポート」以外ではありえない、と言っているが(柴田元幸にも同意させている)、いかにも不自然だ(慣れるとそうでもなくなるのだが)。
やはり、『悲しきカンガルー』のリフレインが「私的言語」として、村上の創作を動かしているのであろう。村上も気が付いて(読者があとで分かるように)「スポート」を書き残したのだ。
sport
1-4 略
5 (主に豪略式・米古風)(呼びかけ)君、あんた ▼親しい男同士が用いる。
6-9 略
(『プログレッシブ英和中辞典』第4版)
3
加藤典洋『村上春樹の短編を英語で読む』(講談社2011)では、全小説に作品番号を振っていて便利だ。加藤は「10カンガルー通信」「11カンガルー日和」としているが同じ1981年10月の発表。
村上も「どちらが先だったのかはどうしても思い出せない。」(『全作品』)と言うが、「カンガルー日和」が先だ。
「一ヵ月間、・・・待ち続けていたのである。」(「カンガルー日和」)
「二ヵ月前に生まれたばかりです。」 (「カンガルー通信」)
これは内容からも証明できる。
「カンガルー日和」が女性から男性へのメッセージであり、「カンガルー通信」は男性から女性への返信である。
「カンガルー日和」のテーマは、女の子の出産願望である。
村上は結婚はしても子供を作らない人生を選択したので、夫人とのあいだに確執があるが、1981年なら32歳くらいで、夫人の言として読むと村上への強い皮肉が読みとれる。
カンガルーの赤ん坊を見に行きたいということだけでも、すでに出産願望の現われであるが、女の子の話は終始赤ん坊のことばかりだ。
男は女の出産願望に気がつかない(ふりをしている)。
「カンガルー通信」はしつこい女性のクレームへの返信である。
「谷津遊園」でカンガルーを見たあとで、大きな議論があったのだろう。村上の決意はかたく、女の子の願望はかなえられない。
「カンガルー通信」には強いストレスが感じられる。今回20年ぶりに再読(2度目です)したが、昔と同じく辟易した。(だめなものはだめということ。しかし、なぜ村上は子供を作らないのだろう。)
4
柵の中には四匹のカンガルーがいた。一匹が雄で、二匹が雌、あとの一匹が生まれたば
かりの子供である。 (「カンガルー日和」文庫9頁)
一匹は子供で、二ヵ月前に生まれたばかりです。それから雄が一匹に雌が二匹。いった
いどういう家族構成になっているものか、僕には見当もつきません。
(「カンガルー通信」文庫121頁)
確認はできないが、カンガルーを動物園で飼育する場合このような家族構成はない。
村上の「私的言語」である。
(了)
*年末から倉庫2万冊の本の整理、移転で忙殺。疲労困憊。
*500頁の漢詩文の研究書も大変でした。
*本ブログを本にするため、序説を書いたり、全編見なおしたり、まったく更
新できませんでした。すみません。
*津波の復興や原発の対策が進まないのも、現在の日本システムが(村上
の言うように)間違っているからだ。みんなが役人の不正を認識しなけれ
ばならない。
*本稿は、中野和典の論文に答えて書いたメモ(2月)を大幅に改稿した。
*サリンジャー「バナナ魚日和」については、別稿で検討する。