「やれやれ」の起源 若草書房CE
*
『1Q84』には、「やれやれ」が6回出てくる。
①やれやれ、どうしてここまで戸締まりを厳しくしなくちゃならないんだ。(BOOK1 62頁)
②やれやれ、ものごとはそんなにすんなりとは進まない。 ( 〃 91頁)
③ようやくクイーンが終わると、今度はアバの映像になった。やれやれ、と青豆は思った。
( 〃 238頁)
④「やれやれ」、青豆はこめかみを指で押さえ、ため息をついた。 ( 〃 346頁)
⑤やれやれ、私はいったい何をしているのだろう、と青豆は思った。私は自分がこれから
殺害しようとしている男を相手に愛について語っている。 (BOOK2 235頁)
⑥やれやれ、これでもう何も心配する必要はない。また振り出しに戻れたんだと。
(BOOK3 266頁)
②が天吾、⑥が牛河、それ以外は青豆のものである。
この語の辞書の説明は、以下のようである。(デジタル大辞泉)
やれ・やれ
[感](「やれ」を重ねていう語)
1 困難や不安が解決したとき、大きな感動を覚えたときなどに発する語。「―、これで安
心」「―、たいへんな人もいたものだ」
2 予期しない困難に出あったとき、疲労・落胆したときなどに発する語。「―、困ったこと
になったぞ」「―、いやになってしまった」
3 他人の不幸などに同情して発する語。「―、かわいそうに」
4 呼びかけるときに発する語。おいおい。
①から⑤までの村上の用例は、2の後半の意味である。「疲労・落胆したときなどに発する語」。これは、村上の最初の使用例、
やれやれといった顔付きでボールをアウト・レーンに落としてゲームを終えた。
(『1973年のピンボール』1980、文庫1983、底本1999 45刷)
から変わらない。
⑥は、1の前半「困難や不安が解決したとき」である。
**
加藤典洋の「「まさか」と「やれやれ」」(1988)は、わかりにくい。原因は、参考にした『日本国語大辞典』が2の後半の意味「疲労・落胆」を採用していないからだ。(第2版を確認していないが、加藤がここで参照しているのは初版。)
加藤の引用では、「がっかりした時や、しくじった時、あきれた時などに発することば。」とあるので、「落胆」はあるのだが、村上特有の使い方である「疲労」がない。(これは加藤も気が付いていて、「苦い諦念」を秘めた「やれやれ」と『虞美人草』の例を引いている。)
加藤はこの後、
村上の「やれやれ」は、何より彼にとっての「現実」が、それ自体で彼に対立するというよ
り、彼自身を含んで彼に対立していると、そう彼に感じられていることを語っている。
(『村上春樹論集①』若草書房2006、123頁)
と結論してゆくのだが、私は違うと思う。というより、「苦い諦念」の「疲労」感の意味を追究するべきなのだ。
***
『1Q84』の重要な映画作品は、『ペーパー・ムーン』と『華麗なる賭け』である。『ペーパー・ムーン』は10歳の主人公のモデルであり、月のイメージの重要さを提示する。『華麗なる賭け』は、主人公・青豆のイメージの一部を表現する。
『華麗なる賭け』(1968)で、マックィーンがフェイ・ダナウェイの保険調査員の裏切りの言葉に応える科白「Beautiful」を、日本語吹き替えでは「やれやれ」と言う。(なんて素敵なんだろう! 「お見事!」なんて野暮はいわないのだ、マックィーンは。)
私はこれを、DVD(2009/9)で初めて見た。この日本語吹き替えは、1980年11月のTV放送時のもので、村上の「やれやれ」の初出「1973年のピンボール」(『群像』1980/3)以後のものである。
だからといって、『華麗なる賭け』が「やれやれ」の起源ではないとは言えない。
『1973年のピンボール』は初出ではあっても、1例しかない。つまり、無意識の使用例である可能性が高い。
それに引き換え、『羊をめぐる冒険』(1982)には9回出てくる(旧文庫上27、243、下27、28、36、41、49、106)。しかも、
やれやれという言葉はだんだん僕の口ぐせのようになりつつある。 (旧文庫下36頁)
と言い、明らかに意識的に使っている。
また、1981年以後の短編には、よく使用されている(『カンガルー日和』1983)。「32歳のデイトリッパー」「チーズ・ケーキのような形をした僕の貧乏」「タクシーに乗った吸血鬼」「駄目になった王国」「かいつぶり」。
****
「やれやれ」を、なぜ村上は使用するようになったのだろう? なぜ私たち読者は、「やれやれ」に惹きつけられるのだろう?
「やれやれ」は、肯定的あるいは向日的な語ではない。広く人気を博すような言葉ではない、本来は。しかし、周知のように、村上の代名詞のように認知され、読者に使われている。
村上の「やれやれ」は、「疲労感」を表現している。(より正確に言えば、用例によっては「疲労感」+「呆れた」という意識を表現している。『1Q84』用例①③④⑤。)
僕の小説が語ろうとしていることは、・・・「あらゆる人間はこの生涯において何かひとつ、
大事なものを探し求めているいるが、それを見つけることのできる人は多くない。そしても
し運良くそれが見つかったとしても、実際に見つけられたものは、多くの場合致命的に損
なわれてしまっている。にもかかわらず、我々はそれを探し求め続けなくてはならない。そ
うしなければ生きている意味そのものがなくなってしまうから」
(『村上春樹雑文集』2011、388頁)
1968年からのパリ5月革命などの学生反乱・世界変革は、失敗に終わる。体制の巻き返しで、大衆は世論操作され、変革は「悪」とマインド・コントロールされる(連合赤軍、浅間山荘事件)。青年の歌は、「戦争を知らない子供たち」から「結婚しようよ」「傘がない」に変わる。
青年の素朴な未来への理想は、(よくないものとして)失われていった。青年たちの変革の希望は、「疲労感」に変わっていったのだ。
1970年代は、村上や青年たちにとっては「やれやれ」の時代であったのだ。
それが、10年経過して1980年代になって、対象化されるようになり、ようやく生々しさが抜け、表現できるようになり、読めるようになってきた。
その時に、マックィーンの「やれやれ」が、村上と同時代の精神を的確に表現していると、村上はピンと来たのだ。そしてそれは、村上の後輩の世代にも、時代精神として受け入れられ、自分たちの世界に対する感覚を表現しているものと認められたのだ。
村上は『1Q84』以後、創作の秘密を公開するようになった。(『考える人』『夢を見るために・・・』『雑文集』など。)
『華麗なる賭け』が打ち明けているのは、「やれやれ」の起源である。
(了)
*本稿は、未完です。英訳の検討も数か所しかしていません。
また、1975年のTV『華麗なる賭け』も未見です。
*次回は、村上の効率について or システム批判(8/29)。
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村上春樹の翻訳語をめぐる仮説 1
サリンジャーの原文“I also say “Boy!”quite a lot”(ホールデン)の“Boy!”を野崎孝(『ライ麦畑でつかまえて』白水社1964)は「チェッ!」と訳し、村上春樹(『キャッチャー・イン・ザ・ライ』白水社2003, 18p)は「やれやれ!」と訳した。ちなみに、村上が愛用しているという『リーダーズ英和辞典』(第2版、研究社1999)を見たら、“Boy”の訳語に「チェッ」はなかったが、「やれやれ」はあった。
もう一つ、カポーティはホリー・ゴライトリーのことを“phony”と書いた。「ペテン師」の意味だが、これを龍口直太郎(『ティファニーで朝食を』1968 新潮文庫)は「食わせ者」と訳し、村上春樹(2008 新潮文庫)は「まやかし(・・・・)」と訳した。これも 『リーダーズ英和辞典』で見たら、「食わせ者」はなかったが、「まやかし」はあった。
村上の翻訳を考えるとき、この辞書は重要ではないでしょうか。で、「やれやれ」の起源説にこの辞書を加えて下さい、根本さん。
あ、不思議が一つ。村上訳『ティファニーで朝食を』(新潮文庫)50p 一行目の「ドイツ語しか話せないんだが、この医者でさえ」の読点の箇所に、原文では“Boy”(やれやれ)があるのに、村上はこれを訳出していない。何故だか分かりません。これがほんとのやれやれ…です。
投稿: 明里千章 | 2011年12月 3日 (土) 23時26分